靈感範文站

位置:首頁 > 心得體會 > 讀書筆記

海邊的卡夫卡讀書筆記

第一篇:海邊的卡夫卡讀書筆記

海邊的卡夫卡讀書筆記

海邊的卡夫卡

作者:村上春樹

出版社:上海譯文出版社

人文學院11中本2馬淑文

摘要:

《海邊的卡夫卡》講述了一個十五歲的少年,幼時被母親拋棄,又被父親詛咒:姦污自己的母親,強暴自己的姐姐,他厭倦了在中野區的生活,想要追求什麼卻又不清楚到底追求什麼,於是化名“田村卡夫卡”“決心成爲世界上最堅強的少年”,一個人離家出走,奔赴遠方,投入到波濤洶涌的成年人世界當中的故事。當然,這其中也發生了一些不可思議的事情,諸如腦袋不好太好使卻能和貓對話的中田君,性別不明的大島,詭異的森林,還有那個海邊的卡夫卡。

每次看到一本喜歡的書都想要抓緊一分一秒把它吞食下去,直到自己實在堅持不下去,困得不行,才肯放手。上課的時候偷偷看,又怕被老師發現的那種緊張感,又莫名地讓人興奮。

《海邊的卡夫卡》無論是從書的語言,結構,還是內容,寓意,都是一部吸引人的作品。

不管怎麼說,上了大學(或者說上了年紀),又是中文系,經過某些專業知識的薰陶,看書就不僅僅是停留在看書的階段,會從寫作手法的角度去看它,儘管水平有限,但還是會想象如果是自己,對於這樣的情節會怎麼處理,這樣的環境會怎樣描寫,這樣的語言會怎麼組織,當然,更多的是,從中,從大家的筆下學到了怎麼去構思,怎麼去寫。

《海邊的卡夫卡》中印象最深刻的,也是最令自己喜歡的就是村上春樹對於森林的描寫和大量運用短句和句號。

我現在還不能明確說爲什麼自己會喜歡,但是首先是大一寫作課時,老師曾介紹過句號的運用,在寫作上的能量是非常強大的。在日後的寫作中,自己也深感這點。除了曾在個別詩歌和魯迅的一些作品中見過此類形象,《海邊的卡夫卡》就是真正引起我關注和深刻印象的一部作品。

文中這樣的句子多的數不勝數(當然這可能有點誇張了),這裏我只能舉一段例子:

我明確地點了一下頭。她閉起眼睛。我一直凝視着她閉合的眼瞼。我可以通過那眼瞼看到她所看的黑暗,那裏浮現出種種奇妙的圖形,浮現又消失,反覆不止。稍頃,她緩緩睜開眼睛。

句號放在這裏的作用很明顯,也恰到好處。“我明確地點了一下頭(句號)她眯起眼睛(句號)“,用一個小小的句號將兩個人的動作結束的乾淨利索,不留痕跡,毫無關聯,毫不拖沓,儼然引導讀者想象出一副清晰的動作畫面,閱讀的節奏感也油然而生。很好。

諸如此類還有很多。

對於田村卡夫卡君每次進入森林的場面,真心歡喜得不得了!因爲不通日語,沒辦法讀原版,所以不知道是原版的語言就這麼美好,還是林少華先生翻譯的功

力。當然,我相信兩位都有功力的。

起先讀林少華先生的前言的時候,他說自己沒有接受完整的教育,功底不甚很好,我還擔心來着。因爲之前讀一些歐美作家的作品,不知道是隻能翻譯成這樣,還是原文就是那麼乏味,亦或是買的版本原因,總是讀得不盡如人意,都是掃興而歸。自然書的情節還是很好看的。但是,沒想到!整本書的語言都美到不行,尤其是環境描寫——森林裏的描寫和人物間的對白,寫得那叫一個好!讀來真是身心舒暢啊!

這裏我也截取一小段,略作參考:

小路越走越窄,逐漸把統治權讓給雜草,就好像雄赳赳地大聲開頭的話語漸漸細弱,進而含糊不清。平整過的痕跡不見了,很難看出是真正的路還是僅僅看上去像路。未幾,路被羊齒草那綠色的汪洋徹底淹沒。

然而,作者描寫環境又不僅僅是爲了寫環境而寫環境,有時他也會依着任務的心理變化,描寫外在的環境,烘托整個氛圍。如田村卡夫卡君和佐伯發一次發生關係的夜晚,之前的對話。深夜。海灘。兩個人的對話,簡單的對話。夾雜着海灘的夜景,不是很有感覺嗎?在那樣的情況下,即便是倫理道德的問題,發生關係也是顯得那麼自然而然。

誠然,《海邊的卡夫卡》中是有很多變態的場面,但是就他的語言和用詞上來說,個人覺得寫得真得很精緻,很到位。雖然不願提起瓊尼·沃克殺貓吃心的片段,但是對於描寫這個場面的用字用詞以及動作都是印象深刻,爲之概嘆的。 他用指甲把牙縫裏嵌的什麼剔出,又扔進嘴裏,美滋滋的細嚼慢嚥,心滿意足地“咕嚕”嚥了口唾液,最後打開黑色塑料垃圾袋,把割下腦袋剜出心髒的貓身隨便投了進去,彷彿在說空殼沒用了。

這一長句話,字字都是扣人心絃,把一個怪異的殺貓吃心者的形象刻畫地淋漓盡致!能不說好麼?!

除此之外,人物間的哲理性對白,我也是受益匪淺。不論是大島和田村之間的對話,田村和佐伯之間的對話,還是中田和長途車司機的對話,星野和山德士大叔的對話,都含有無窮的哲理性在裏頭。我在想,這是要有多深厚的功力才能寫得出這樣精彩的對白啊!尤其是大島,海量的閱讀造就了他絕對的文學底蘊,無論是什麼都能說出個所以然來,讓人不禁爲之羨慕!!他對於田村的規勸同樣富有哲理性:

“我們的人生有一個至此再也退後不得的臨界點”

以及田村自己所悟出的人生哲理:

“我追求的,我所追求的強壯不是一爭勝負的強壯。我不希求用於反擊外力的牆壁。我希求的是接受外力忍耐外力的強壯,是能夠靜靜地忍受不公平不走運不理解誤解和悲傷等種種情況的強壯”

這種種,不僅僅對於田村這個十五歲的孩子本身,對於第三者的我們也是影響甚大!

每看一本書,都會得到新的感悟,尤爲讀到像村上春樹這樣底蘊十足的作家的作品,在仰慕欽佩之餘,更多的是激勵自己去讀更多的好的作品!

第二篇:海邊的卡夫卡

《海邊的卡夫卡》

主人公田村卡夫卡君不是隨處可見的普通的十五歲少年。他幼年時被母親拋棄,又被父親詛咒,他決心“成爲世界上最頑強的十五歲少年”。

他沉浸在深深的孤獨中,默默鍛鍊身體,輟學離家,一個人奔赴陌生的遠方。無論怎麼看——在日本也好,或許在中國也好——都很難說是平均線上的十五歲少年形象。

這部作品的主角田村卡夫卡——一個“世界上最頑強的15歲少年”。在村上以前的小說中從來沒有出現這樣的主角,這一次作家用了第一人稱來講述他的故事:“我”是家住東京的15歲少年田村卡夫卡,4歲時母親帶着姐姐離家出走,此後“我”與父親的關係就一直不好,性格也變得越來越孤僻,拒絕與別人交流。父親預言“我”將殺父娶母,並與姐姐發生關係。爲逃避這個俄狄浦斯式的可怕詛咒,“我”隻身出走來到四國的甲村圖書館。館長佐伯是個近50歲的高雅女士,管理員大島則是個性別模糊的人物。“我”從大島處知道了佐伯的傳奇身世,懷疑佐伯就是自己的母親,但卻宿命般地愛上了她……15歲少年的漂泊構成了小說的奇數章節,偶數章節則是老人中田的流浪,它們相互穿插,直至最後合二爲一。60多歲的中田獨自一人住在東京中野區,經常幫助鄰居尋找丟失的貓。一天他被一個自稱瓊尼·沃克(著名的威士忌品牌)的人叫去,此人說他的宿命是收集貓的靈魂做特殊笛子,因此不老不死,希望中田將他殺死,在被拒絕後,他當着中田的面肢解貓,然後生吃貓的心臟,受到刺激的中田最終殺死瓊尼·沃克並出走,而他也因此失去與貓對話的能力。其實這個被殺的瓊尼·沃克就是少年田村卡夫卡的父親,從這裏開始小說的兩條線索慢慢合攏。在中田尋找名爲“入口”的奇怪石頭的過程中,又有天降魚雨和螞蟥雨的怪事,甚至肯德基門口的那位山德士上校也出來幫忙,路上遇到的青年在老人死後殺掉了從他嘴裏出來的白色異形。如果說少年的故事主要以現實的描繪爲主,那老人的這一部分則充滿了魔幻色彩。

不同的時間:一個是近代戰爭時期的日本,一位即將退休的國小教師在回憶幾時年前他的幾位學生所得的怪病;另一個發生在現代的日本,一位沒有母親又被父親詛咒的男孩在決心成爲“世界上最頑強的十五歲少年”之後,獨自奔赴陌生的遠方。前一個故事一直在設置懸念:學生到底得的是什麼病,爲什麼集體失憶。由於時間隔得很遠,老教師在模糊的印象中艱難地作着挖掘,一會認爲是戰鬥機飛過使孩子受到驚嚇,一會又認爲山果有毒使孩子誤服毒素。真相就在這些似是而非的探究和辯論中漸漸明晰,漸漸現出輪廓;後一個故事是本書的主體,那個叫做“烏鴉”的少年其實就是男孩意念中的靈魂,男孩獨特的成長經歷使他在深深的孤獨中學會尋找到一個並不存在的精神世界裏的虛幻人物交談對象,對方說的話其實就是他自己內心的話,對方爲他作的描述不過是其對自身經歷的描述。田村卡夫卡試圖在與“烏鴉”的對話中尋找到真正的自己,尋找到自己真正應該奔赴的方向,然而一切都是徒勞的,“烏鴉”的話就像毒藥,誘惑着自己,迷惑着自己,並使之最終陷入尷尬的結局。

故事中的櫻花、星野、大島都是極具個性,充滿叛逆的人物。他們一方面對田村卡夫卡抱以兄、姐般的同情與愛護,想竭盡所能幫助這個在宿命嘲諷下絕望地外逃的孩子,一方面自己又身陷道德的囹圄,不斷上演可笑、愚昧甚至離經叛道的一幕幕。作者也許試圖從側面說明,在當今社會,人類最應該做的不是忙着拯救他人,而是及時拯救自己。故事中的情境是帶着哲理與思辯味的,故事發生的地點往往是車站、圖書館、單身家庭、或是野外荒郊,這些都是極容易使單獨的個體產生冥想甚至幻想的地點,這些冥想和幻想爲情節的展開鋪上了一層厚厚的學術迷霧,讀者在享受了迷霧中的興奮點之後,不得不回到故事的本身去探尋真相,而真相簡單明瞭致極,命運的一個嘲弄的微笑,或是人物的一個想不到身份就堂而惶之揭開了謎底。讓你明白,世界是如此的真切,人與人是如此不同,儘管想象是多麼美好。

最後還想說一點,田村卡夫卡最初是在孤立無援的情況下遠走他鄉,這其中有現實因素,也有自身的理想因素。而在波濤洶涌的成年人社會中,各種各樣的詭異的力量潛伏在角角落落,企圖在一瞬間跳出來明目張膽地傷害他。而同時,又有各種各樣的人願意向他伸出援助

之手,願意在現實中救援他或在精神上支持他。這些友善或是兇險的潮流鼓動着他不顧一切地衝向了社會的邊緣,而最後,田村是靠着自己的力量勇敢地走了回來的。在回返的那一剎那,他也瞬間成長了許多。這其實是我們每個人很好的入世寫照,那年,我們每個人懵懂而莽撞的扎入社會,不也經歷了相似的波瀾嗎?只是田村卡夫卡的經歷更加誇張些和寫意化一些而已。

因爲喜歡那15歲少年的堅強意志和他敢於面對現實的勇氣,而我們現在的年輕人就缺乏這樣的勇氣,總是去逃避現實,認爲如果逃避了,就沒有責任了,這樣怎麼會真正的成長?而作爲一部跳躍性思維的小說,內容的安排也特別有特點,這是我喜歡它的原因.

海邊的卡夫卡,採用了一種交響樂的結構,不同的樂章在樂曲的行進中逐漸匯聚成爲一個主題。至於這個主題是什麼呢,我的體會是,小說講述的是人生的不完整,以及人們在這種殘缺狀態中的追尋,在追尋中繼續着失落和損毀。田村卡夫卡揹負着先天的殘缺(殘缺的家庭,破裂的父子關係),佐伯揹負着情感的巨大的殘損,中田則是記憶的缺失,大島達到了一種精神層面上的完整,但他(她)的身體和心靈卻處於一種分裂的狀態,這就是我們的人生。我喜歡這部作品的隱喻,還有那些長篇大套的音樂、文學的評論。我不懂日語,不知道原文裏村上春樹的文字是什麼樣的風格,但是我喜歡林少華的譯文,優美,輕盈。

村上的故事的主角基本是都可以在現實中找到對應

如果理解並支持村上厭惡的東西 就可以跟村上站在同一條戰線上

並在讀他的書時獲得消滅厭棄之物時的快感

《海邊的卡夫卡》也是如此

意志之軾 無需負現實中的任何責任

想必多數人都會保有這樣的想法的吧

我將田村卡夫卡君軾父稱爲“理想之軾”或“完滿之軾”

我想我可以理解村上部分小說的部分意義之所在

第三篇:海邊的卡夫卡

「海辺のカフカ」に見られる反戦意識について

要旨

2002年に刊行された「海辺のカフカ」は、日本で最も著名な現代作家の一人である村上春樹氏によって書かれたベストセラー小説である。現代における世界的な偉大な文芸作品として位置付けられた本作品は村上作品特有の不思議な世界を舞臺にストーリーが展開され、主人公である15歳の尐年「僕」(田村カフカ)がその世界の中で、心の成長を遂げていく物語が主軸となっており、並行してもう一つの物語も進行し、終盤で二つの物語が一つとなるという技巧が凝らされており、推理小説的な楽しみ方もできる作品である。

しかし、筆者はそうした文芸としての技巧の部分よりも、この作品に込められた日本における戦後世代の「反戦思想」の部分に注目して研究していき、それを本論文の研究目的としたい。

キーワード:戦爭、責任、貨幣

2014年發行的《海邊的卡夫卡》是日本最著名現代作家之一村上春樹所寫的最好的作品。本作品作爲現在世界性偉大的藝術作品之一,村上將富有特色的不思議世界作爲舞臺,展開了小說的故事。以15歲的主人公田村卡夫卡在這個世界的成長爲主線,並行貫穿了另一個故事,最後結尾採用了將兩個故事結合成一個故事的技巧。這部作品游泳推理小說的樂趣。

但是,比起本小說中的藝術技巧的不分,作者更關注包含在本文中“戰後世代”的“反戰思想”,作爲本論文的課題進行研究。

關鍵詞:戰爭,責任,貨幣

序論

「海辺のカフカ」については、これまでに多くの評論が行われている。同作品では多様な解釈が成り立つストーリーが展開されているため、作品のホームページにも作者に対する様々な質問が寄せられ、作者自身も読者個人個人の解釈を重要視しており、明確な答えを提示していない。そのように、この作品は読者それぞれの楽しみ方ができるところが大きな特徴であり、魅力でもある。筆者は數多く行われている同作品に対するストーリーの解釈に対する研究ではなく、あくまで作者が作品に込めた戦後世代の戦爭に対する考えを中心に研究し、それを本研究の意義としたい。

「海辺のカフカ」はその文芸作品としての面白さが注目されがちであり、評論、評価の多くがストーリーの解釈について述べられたものである。本論文では、そのストーリーの部分についても言及しつつも、本作品の中に見られる作者の戦後世代としての戦爭に対する思想に着目して研究、及び評論を行っていきたい。

本稿では、まず作品に出た戦爭経歴のある人達について、中田と逃兵の性格を分析する。それから、戦爭場面の描寫について考察する。作品に表された戦後世代の戦爭に対する思想と観念をまとめる。

本論

一、作品に出た戦爭経歴のある人達について

1.1 中田

個人的に村上春樹の長編小説の『海辺のカフカ』では一番印象に殘っているのはその人物の描きである。夜行バスや私立図書館の空間的な雰囲気やナカタさんや佐伯さんなどのキャラクターに魅力を感じていた。特に、〈「貨幣」と結びついた「抽象的な思考」ができず、複雑な會話もできないナカタさんが気に入っていた。字が書けないが、貓と話をすることができる。ずっと中野區を出たことがない-死んだら世田谷區の「カラスヤマ」の墓地に入ることになっているナカタさんである。「貨幣がきのこのように勝手に自己増殖する」ことが”當たり前”になっている、全面的に貨幣化された社會の一員になり切っていないカフカ尐年もいる。

何らかの"本體"があるのかもしれないが、具體的な形を取ってナカタさんの前に「現前化」し語りかけることができないので、有名な「商品」の外見を借りたようであり、物理的な本體を持たず、もっぱら「商品」を通して自己を現わす「貨幣」のような存在だと言える

宇宙の超越的な法則性の化身であるとしてか思えないところだが、そういう先入観がなければ、「資本主義のイコン」を利用しているわけだから、市民社會を「信用」関係によって統合している中立的なメディアである「貨幣」の化身として読んでもいいように思える。何と言っても一番の被害者とおぼしきナカタさんが、アメリカに対しても、日本という國家に対しても反抗的態度を示していないことが大きい。ガス実験のおかげで知能の発達が止まって抽象的な思考ができなくなっているナカタさんには、誰が自分をこのような影の薄い存在にしてしまった元兇かという分析はできないし、そもそも自分が不幸か幸福かさえよくわかっていない-ご飯を食べている時だけは、幸福に感じるようである。抽象的な思考が出來ないナカタさんである。抽象的な思考にしがみついている自分だろう。 現実に、ナカタさんのような人が中野區で平穏に生きていけるかは別にして、自分に必要の無い"大きな金額"に「関心interest」を示さず、狹い日常の中にとどまり続けた彼の人生は、それなりに安定していた。ジョニー?ウォーカーの姿を借りた"何か"がちょっかいを出して、日常性の"外部"の、「精神における抽象的思考」と「ファンタスゴマリー的な慾望」が相互作用しながら発展し続ける市民社會の"現実"のただ中に強引に連れ出されるまで、ナカタさんは「貓さん」と話せる能力を活かして「貓さん探し」のビジネスをしていた。そこにはナカタさんと近所の人々の間に、『貨幣』に媒介された絆(=信用)が成立しており、中野區內の彼の周辺周辺には極めて小さな『経済』関係が成立していた。利殖的な性格がほとんどなく、使用される地域と用途、相手が限定されており、しかしそれゆえに地域的コミュニケーションの緊密化のためのツールになっているという點では、「貓さん探し」のお禮としてナカタさんが受け取っている「お金」は、実質的に「地域通貨的」なものだったと言えるという。そして、〈損得勘定などしないで、淡々と頼まれた仕事をするだけで、自/他の利害関係に対する「無関心さ」のおかげで皆に信用されて、貓さん探しという仕事を依頼されるのだろう。

ところで、なぜ『海辺のカフカ』やナカタさんの存在が気になってるのだろう。つい「ボンヤリ」という言葉をつかってしまいそうになる。仲正さんはナカタさんにこだわる理由について述べている。

筆者がなぜナカタさんの話にこだわるのかというと、『海辺のかカフカ』に描かれたナカタさんというキャラクターが、貨幣によって無制約の所有「慾望」へと駆り立てられることなく、“コミュニケーションの補助媒體としての貨幣”とつき合っていくための條件を“身を持って”示しているように思えるからである。それはほぼ達成不可能な條件であるー哲學にとって、なぜ“達成不可能”であるかを考えることは、決して無意味ではない。

1.2逃走した兵

逃走した兵はその文章で一つの小さな人物である。その戦爭に関する態度は村上は日本政府に賛成するという言葉を書いていなかった。ところで、村上は文書でどのように戦爭を描いていただろう。文章では、二人の逃走した兵がいる。その二人の兵はそういったのだ。「戦爭があれば、徴兵することになる。徴兵されると、銃を持ち、戦地に向かい、戦わなければならない。したがって、敵を殺さなければならない。人殺しが好きでも、嫌いでも、そのようなことに関係していない。人を殺さないと、自分が殺される恐れもある。」という話がある。

村上はその二人の兵を通して、戦爭の慘めな所を描いていた。その兵についての內容は尐ないが、戦爭に関する嫌いさが感じてくる。戦爭の嫌いさはその二人の兵には存在するだろうと思われる。そして、戦爭と暴力の問題について、深く反省すべきだろうと思われる。歴史を忘れないことはもちろんである。それから、その歴史を自由に改竄することはいいことではないだろう。

二、戦爭場面

2.1岡持節子は昏迷事件

岡持節子は夢を見ている。その故の中で、子供たちはキノコを食べた。そして、みな全部頭がぼんやりして、意識がなくなった。しかし、子供たちは目が開いたまま何かを見ているらしい。見ている対象は他の人にも見られないようだ。二時間がたってから、子供たちは意識が戻ってきた。しかし、記憶が失った。一人の子供は意識がまだ戻らなかった。病院に運ばれた。

小説の前の二十章ででは二回の意識不明を描いた。その二回では、戦爭や暴力や血腥いさにつながっている。岡持節子先生のタオルは血腥いさを代表している。そして、彼女は九歳の中田を毆るということは暴力を描いただろうと思われる。それと同時に、岡持節子の夫は戦爭へ徴兵された。そのことは戦爭の話を開いてくれる。

そのような話中で、間接的に暴力と戦爭への反対を表しているだろうと思われる。村上はそのような態度を文章に隠した。特に暴力は印象的である。ずっと心に懸かっている村上春樹の小説がある。?暴力、戦爭?という題である。邪悪な友によって痛めつけられた話である。彼が?本當に怖いと思う?のは、邪悪な友その人ではなく、その人の話を?無批判に受け入れて? ?踊らされて??誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い當たりもしない?連中だと語る言葉を、折にふれて私は思い起こす。自分が?無批判な側?の人間かもしれないという恐れのもとである。突風のようにやってきて、暴力的に人を損ない傷つけるもの。それに対して人は何ができるのか。何ができないのか。やってきた暴力がどう人を損なうのか。さまざまな旋律で、このことは近年の村上作品の中に鳴り響いているように思う。

2.2中田の記憶喪失

第6章でナカタさんが登場する?いきなり貓との會話だ?ナカタさんの律儀で正直で誠実で正しく無垢な姿は,あまりにも感動的だ?だが彼にその自覚はない?彼には記憶がないのだ?さらに感情も心もない?だからナカタさんには現在しかない?最初の登場シーンでナカタさんは貓から影が普通の人の半分ぐらいしかないことを指摘される?『世界の終わりとハードボイルド?ワンダーランド』が思い出される?ラスト,「僕」は「影」だけを「世界の終わり」から脫出させ自分は森に殘る?ナカタさんは「壁」から脫出した「影」なのだ??影?とは記憶であり心であり自我である?「世界の終わり」ではその影をはがし,人は心や記憶から解放され平穏で靜かな世界を手に入れることができる?噓も駆け引きも詐欺も戦爭も無い?だがその世界は何の喜びも悲しみも怒りもない止まった世界だ?

?僕?はその事を知り,またその世界が自分の作った世界であることを知り,自分の責任

としてこの世界に記憶と心を取り戻すことを決意し森に入る?「壁」を抜け出た「影」はどうなるのか?生きていけるのか?

『海辺のカフカ』は『世界の終わりとハードボイルド?ワンダーランド』を,この部分で引き継いでいる?

ナカタさんは「影」を失った人間として描かれる?心も記憶もない?感情もない?性慾もない?あるのは現在だけだ?

だがだからこそ目の前の現象に正しく対応することができる?過去の思いや見栄や恨みやねたみ,生きていく計算や駆け引きから自由な分だけ,正しい選択を行うことができる? 中野區から高鬆まで一円のお金を使うこともなく來てしまう?どこででも人の善意を喚起してしまうのだ?我々の病んだ心より空っぽな心のほうが正しく善意に満ちているのだろう?

ナカタさんは他の子供達と一緒に集団昏睡に陥り,どこかの別の世界をじっと端から端まで目撃した?他の子供たちが意識を取り戻しその世界を忘れた中,ナカタさんだけがその世界を自分の中に殘し代わりに自分の中の記憶を全て無くした?昏睡の中ナカタさんを含めた子供たちが行った世界が「壁」の中の「世界の終わり」であると解釈することは間違っていないだろう?

この?世界の終わり?が「死」を表しているのかどうかは良くわからない?ナカタさんが「頭のスイッチを切り,存在を一種の「通電狀態」にした」時に見る光景が異様なものであるからだ?

『ほどなく意識の周辺の縁を,蝶と同じようにフラフラをさまよい始めた?縁の向こう側には暗い深淵が広がっていた?ときおり縁からはみ出して,その目もくらむ深淵の上を飛んだ?しかしナカタさんはそこにある暗さや深さを恐れなかった?どうして恐れなくてはならないのだろう?その底の見えない無明の世界は,その重い沈黙と混沌は,昔からの懐かしい友だちであり,今では彼自身の一部でもあった?ナカタさんにはそれが良くわかっていた?そこには全てがある?しかし部分はない?部分がないから何かと何かを入れ替える必要もない?むずかしいことは考えず,すべての中に見を浸せばそれでいいのだ?それはナカタさんにとって何にも増してありがたいことだった?』これもまたナカタさんの行った世界なのだ?目もくらむ深淵と無明の世界?その重い沈黙と混沌?ドロドロと永遠に蠢き続けるエネルギーの集合體?そこには?世界の終わり?にある靜謐さは感じられない?対極にあるものだ?無,死,ではない世界なのだ?この二つをどう関連付けるのか?ナカタさんが?世界の終わり?と同様の世界に行ったことは確かだ?後に佐伯さんが入り口の石を開け,時間を止め15歳の記憶をそこに永久に封印した場所が『世界の終わりとハードボイルド?ワンダーランド』の「森」と同様の,大島さんの別荘の裏に広がる「森」なのだ?そしてその存在はナカタさんも知っている?

では子供の頃ナカタさんが行った世界とはどちらなのだろう?混沌の世界か靜謐の世界か?おそらく?森?で記憶をなくし生きていく人々のその記憶がその森の裏側で混沌を作り蠢いていると考えるのが,僕には精一杯の所だ?もしも仮に『世界の終わりとハードボイルド?ワンダーランド』での「一角獣」たちが人々の記憶を吸い取り,死に,焼かれ,磨かれた頭蓋骨となり,それを「夢読み」に読まれ,大気中に放出したとして、その人々の記憶や思いがそこで消えてなくなるのだろうか?怒りでも恨みでも,喜びでも悲しみでも,そのエネルギーは消えてなくなるのだろうか?無くならないと思う?

恨みつらみばかりでなく,ささやかな喜び,ほんの小さな喜び,馬鹿馬鹿しいほどのちゃちな喜び,しかし,であればこそそれだけそうした喜びは人への恨みつらみ,憎しみ怒りと同様,あるいはそれ以上にいつまでも殘り続けるのではないか。そうした思いのエネ

ルギーは永久に殘る?

きっと地球の裏側に張り付いて地球とともに回っているのだろう?それは同じ成り立ちの表と裏なのだと思う?

ナカタさんと子供たちはそうした混沌と靜謐の二つの世界を目の前にし,じっと目を開け,目の前に繰り広げられる二つの世界を目撃したのだろう?そして中田尐年だけが,その二つの世界を持ち帰った?その理由は彼が昏睡狀態に入る直前,引率の先生の月経の血にまみれたタオルを手にし,そのために先生から激しい暴力を受けたことによるのだろう?それが中田尐年の心の奧底へのドアのカギを開け,その二つの世界との通路を作ってしまった?彼は混沌と記憶や感情の喪失を持ち帰る?彼の混沌のエネルギーは『ジョニ-?ウォーカー』殺害の際浮上する?

三、作品に表された戦後世代の戦爭に対する思想と観念

村上は1949年に生まれた。日本戦後の後代でといえる。全文が述べたように、村上の父は中日の戦爭で戦ったことがある。その父の経験は村上の心に精神的な影響を與えている。したがって、彼の作品にはその戦爭に対する態度が隠されていただろう。戦爭で犯した罪は責任にかかわる問題であると彼はそう思っている。そして、人々に戦爭について深く考えてほしいため、村上は作人を作っただろう。『海辺のカフカ』では內部から見ても、言葉から見ても、村上は戦爭に対して、日本が責任を逃れることに反対することが分る。 あるインタビューで、村上は戦爭の責任に対してそう答えた。「日本人であるため、本で書いてあるの本陣が中國人を虐待している內容を読んで、自分でも信じられないほどだ。その行為はどれほどバカなのだろうか。我々の先輩と祖輩はなぜそのような行動をしたのかは知りたい。どんなものの駆使で、そのような殘酷な行為をしたのかは知りたい。」と言っていた。

『海辺のカフカ』では責任という言葉が品番的に出てくる。ここから見ると、責任問題は『海辺のカフカ』中での重大な問題である。父の呪いを避けるために15歳の田村カフカは東京の家から數百キロメートル離れた四國に逃れた。しばらく経ち、意識が失い、また戻ってきた。自分の手は血だらけだ。自分が誰を殺したあるいは傷つけたかは知らない。それと同時に、父は家の中で殺された。現実のロジックから見ると、カフカは自分の父を殺した、それで、そのことに対して、責任を負わなければならないだろう。その問題は大切である。実はカフカが育った環境は日本戦後の一代が生きる環境に似ているだろう。その一代は暴力の活動には參加しないが、何らかの関係があると思われる。カフカは暴力とは間接な関係があると思う。日本戦後の一代は暴行者とは血縁がある。つまり、カフカはその人殺しの責任を負うかどうかはある程度に、戦爭の責任の問題にかかわっている。 『海辺のカフカ』ではその問題について、筆者は肯定の答えが返った。小説の中で、多くの內容には暴力と戦爭に対する反対が隠されていた。逃走した兵の言葉や中田の物語はその戦爭への皮肉さが分るだろう。あるインタビューで、村上はそう言った。「我々は日本人であるため、戦後の一代はその戦爭の責任を負わなければならない。」『海辺のカフカ』で、カフカは大島の部屋で大島の言葉が見つかった。それは『すべては想像力の問題である。我々の責任は想像力から始まる。葉芝が「in dreams begin the responsibilities」逆に言えば想像力がないと、責任は生じない。多分、アシマンのことは事例である。』村上が述べたように、大島はカフカの指導である。つまり、大島の意見は村上の意見を代表しているだろう。ポイントは我々はどのように大島の言葉を理解するかは問題である。アシマンのような想像力がない人は自分が犯した罪に気づかないだろう。想像力があるため、その責任感を感じてくるだろう。そして、小説の最後にはカフカは勇気を出して、東京に戻った。警察署に行き、事件の有來を話した。自分が犯した罪の責任を負うつもりだ。

結論

まとめて言うと、村上は戦爭に対する感想は責任の問題にかかわっているだろうと思われる。それは、歴史を認め、歴史の責任を負わなければならない。そして、戦爭と暴力に反対する意識もある。

文學式を治す責任を持って日本の當時の作家としては、歴史を思って、更に戦爭話題を設立した時に 村上春樹にたいしては、戦爭の視角を変わるの期待され、新しい治す力を創作し、若い者にとって本當に必要な戦爭題材を創作だと思う。

日文參考文獻

[1] 村上春樹『海辺のカフカ』[z] 新潮社 2014年

[2] 井上義夫『村上春樹と日本の「記憶」』[z]新潮社 1997年

[3] 巖宮恵子『思春期をめぐる冒険――心理療法と村上春樹の世界』[j] 日本評論社2014年

[4] 平野栄久『近代文學研究の可能性――若き研究者とともに――』[j]竹林館2014年

[5] 柄谷行人『日本近代文學の起源』[m]講談社 1998年

[6] 川本三郎『都市の感受性』[m]築摩書房1984年

中文參考文獻

[1] 村上春樹著,林尐華譯《海邊的卡夫卡》[z] 上海譯文出版社 2014年

[2] 秦剛《海邊的卡夫卡》現象及其背後[j] 讀書 2014年第8期

[3] 小森陽一著,秦剛譯《村上春樹論》[m] 新星出版社 2014年

[4] 露絲?本尼迪克特著,北塔譯《菊與刀》[m]譯林出版社 2014年

[5] 卜瑞曉《村上春樹戰爭觀研究》[d] 中國海洋大學碩士論文 2014年6月

第四篇:海邊的卡夫卡

《海邊的卡夫卡》

這部作品於二零零一年春動筆,二零零二年秋在日本刊行。

《海邊的卡夫卡》這部長篇小說的基本構思浮現出來的時候,我腦袋裏的念頭最先是寫一個以十五歲少年爲主人公的故事。至於故事如何發展則完全心中無數(我總是在不預想故事發展的情況下動筆寫小說),總之就是要把一個少年設定爲主人公。這是之於我這部小說的最根本的主題。我筆下的主人公迄今大多數是二十幾歲至三十歲之間男性,他們住在東京等大城市,從事專業性工作或者

第五篇:海邊的卡夫卡讀後感

在這過去的半年,我最大的收穫是對自己的審視。以前我總對別人對我的錯誤評價感到無奈,現在看來,我自己都從沒認真審視過自己,何以見得別人的評價毫無可取之處。有人說我正,有人說我亦正亦邪。有人說我幽默,有人說我悶騷。其實我是個很有幽默感的人,只是那幽默感無法承受外界的壓力而繳械投降,比如學習,比如人際關係。社會將我的幽默感削弱了很多很多,我也只能偶爾發發瘋。我知道那些不同的,甚至截然相反的評價從何而來。我有時埋得很深,深到沒人能到達的地方,即使火山爆發也不能把我給丟出來的地方,有時又毫無保留,而且來的比泥石流還要突然。“酒逢知己千杯醉,話不投機半句多”是我一直奉行的交友原則,就像《挪威的森林》裏的渡邊一樣。

過去的19年,我獨自揹着殘破的價值觀默默地走過,品嚐過農村的平淡,也觸摸過城市的繁華,欣賞過物慾的妖嬈,聆聽過內心的輕唱,走過有路的田野,攀登過無路的山峯。如此,我一個人走在這個被詛咒的世界裏,從沒到達過出口也未曾知曉入口在何方。我曾無數次一個人憧憬着,憧憬着奇蹟像身邊的樹一樣看得見摸得着,還能用腳踹一踹,以確認它是真的;我曾無數次傻傻的看着夜空,沒有詩人的細膩,沒有哲學家的深邃,就這樣看着,看它和我的心有多少相似的地方;我曾無數次睜着眼睛躺着,直到深夜,腦袋裏有綠色,有黃色,有紅色,也有彩虹的繽紛。但這一切都已成爲過去,像廁所的廢物一樣被沖走了,進入了下水溝,再進入長江,直奔大海。

我沒見過海,但我知道我就是大海里的一滴水,和別的水滴互相挨着又彼此排斥着,若離得越近,排斥力越大。我也曾夢到過大海,夢見我站在海邊,捧起一捧海水,像捧着一個世界,不知道是我捧着海水,還是海水包圍着我。我努力地看向遠方,想知道海平線的另一方是不是同樣的失望。看久了,我不敢回頭,不想回頭,不想用“正直”的我去迎合令人窒息的妄想,不想在一羣“無知”裏漸漸迷失方向。

我願像卡夫卡一樣,獨自闖蕩,去尋找解開詛咒的祕方。我願碰到櫻花,我願認識大島,我願投入佐伯的懷抱。我想我的中田早已出發,帶着我的入口石出發,或許他就在海平線的那一邊,坐着穿過失望的大船向我駛來。我期盼着沒有暴風雨的阻隔,沒有猖狂的海盜,沒有滿腦妄想的船長將他領向錯誤的方向。不久以後,我的入口石一定會來。我也有和卡夫卡一樣的“相遇”,我也有和卡夫卡一樣的迷茫,我希望我的“相遇”能幫我解開詛咒,我希望我的入口石也能帶我去沒有時間的地方,我想擁有沒有時間的經歷,像卡夫卡的一樣。此時我又憧憬着,憧憬着浮萍漂來,憧憬着陽光灑下,憧憬着我的生活能像小說一樣精彩。我沒有村上的文筆,沒有他的細膩,但我有和他一樣想看透生活的妄想。

我捧着的不再是是一個世界,而是一個寓言,這個寓言我不可能永遠捧着,此刻我便讓這個寓言滑過指間。我要像卡夫卡帶着那幅《海邊的卡夫卡》一樣,準備去尋找下一個寓言